昨日、偶然、本屋さんで見つけました。
普段、名言集的な本は間違っても購入しないのですが、ついつい面白くて手にとってしまいました。

カフカもパートタイムアーティスト(PTA)であったらしい、

本職は、保険会社のサラリーマンであり、作家は副業だったらしいのです。本を読んでいるとなにか興味深いところが沢山ありました、働きながら、苦悩してアーティストであり続けることに共鳴する人は多いはずです、例えば

「彼は、彫像を彫り終えた、と思い込んでいた。
しかし、実際には、たえず同じところに鑿を打ち込んでいたにすぎない。
一心に、というより、むしろ途方にくれて。」

なにか思い当たるフシがありませんか…。私はとても共感してしまうのです。悲観的なんてものではなく絶望を友としているあたりは、さすが文豪なのかもしれません。最近そんな話をいろんな人とした経緯もあり、ちょっと紹介まで…。

まず自信が無い。あれば作家一本でやっていけるはずですが、己の作品をみて、まるで才能が感じられないという人は、PTA条件その一です、つくっている時は、自分は天才だと感じるのですが…。一歩引いた途端にどうしようもなく感じます、苦悩以外のなにものでもありません。よくあることです。

あまり理解されない。PTAの条件その二です。彼は、友人の一人の努力によって、死後認められたようです。「俺が死んだら原稿は焼き捨ててくれ。」と遺言したものの、友人の裏切りにより後に出版され、認められる。しかもその友人も作家だったのに、彼の作品よりカフカを世に出したコトの方が有名になってしまったという、なんとも皮肉な話です。

真面目だか不真面目だか判らない働きっぷり。PTAの条件その三です。サラリーマンに対しての愚痴を言いまくっているし、遅刻もしていたようです。

「“変身”に対するひどい嫌悪。
とても読めたものじゃない結末。
ほとんど底の底まで不完全だ。
当時、出張旅行で邪魔されなかったら、
もっとずっとよくなっていただろうに…。」

どう、考えても真面目にやっているとは思えません、自分の代表作“変身”の不出来を出張のせいにしています…。でも結構、邪魔されていると言いながら、サラリーマンとしてトントンと出世しているようで…。ついついやってしまう性分なのでしょうナ。

仕事が速い。PTA条件その四。ラブレターの数とかが半端ではないらしいです、約5年間で約800ページ…、犯罪です…。おそらく、思いついてからカタチにするまでのスピードが尋常ではなかったと見受けられます。ラブレーターの間に小説も書いていたとすると異常ですね…。

最後にPTA条件その五。相当な変人気質。結局は超心配性の変わり者に間違いないのです、ただ、自らがつくり出すものに対しての想いは、もの凄いものがあるようです。

「芸術は芸術家にとって一個の苦悩であり、
その苦悩を潜って、
彼は新しい苦悩に向って自らを開放するのです。
芸術家は巨大ではない。
彼の生存の鳥籠に閉じ込められた、
多少とも美々しい羽根の鳥にすぎないのです」

なんとも、美しい言葉です。

パートタイムアーティストの大先輩を見習いたいものです。

 

2 thoughts on “絶望の希望”

  1. うむむ。成る程ザワールド。かたP先生の見解同意します。

    私自身もPTAの諸条件を内包しつつも、自営という立場ながらその職務内容とまるで関係ないオドリなどという、世の中の役に立ってるのか立ってないのかサッパリ分らんものに従事しておりますが、私が常に感じているのは、「ひとつの作品が終わった後で次から次へと新しい作品を生み出す」という、自らを焦らせる事によって過去の作品を振り返らず反省もせず、終わったもののお粗末さから目をそらして逃れている節が非常にあるということです。
    こんな事やってるからさっぱり成長しません。
    かたp先生とは違うかも知れませんが、私の場合はもっとじっくり作る必要があるようです。私の最大の敵は焦りなのでしょうな。
    たとえばダンサー達に振付けをしていても、皆さんも私と同様に昼間の職務に従事しているわけであり、家族があったり愛人があったり恋人があったり友人関係の付き合いや会社の付き合い、様々なものに取り囲まれ、稽古に集中する時間というのはどうしても限られて来ます。
    毎日毎日、朝から晩までオドリの事ばっかり考えてオドリの練習ばっかりしてオドリに関わることに取り囲まれているプロのダンスカンパニーになんて我々はこの時点でかなうわけがない、という現実とジレンマがあります。その中でも必死でレベルアップを計り、それらと同様の、いや、それ以上のクオリティーを目指そうとするのですが、それでも高が知れています。
    本番までの集中力の度合いは自ずと短期戦になってきますし、終わったらドっと疲れてしまいます。その舞台の評価が高かろうとけなされようと関係なく、いつも「こんなもんだよな、やっぱし….」と思ってしまうのです。
    しかし、ある人に言わせると、「こんなもんだよな、やっぱし」と言うのはよろしくないそうで、『たとえ自分が「こんなもんだよなやっぱし」と思ったとしても「こんなもんだよなやっぱし」と言われると悲しくなりますよ、こっちは感動してんのに』と言う意見も中にはあるわけです。
    その度、悪いなーと思います。そこでまた、悪い癖が出て来て「こんなもんで感動してもらってすいません」とか余計な事言ったりします。どうしたらいいんでしょう、このねじ曲がった根性。だったらやんなきゃいいのに。じゃどんなもんだったら自分が納得出来るんでしょう。
    一生涯それは無いでしょう。それだけは分っています。

    では「自分のやってる事で食えればいいのか?」というと、そうでもありませんよね。
    食ってるからこその苦悩もあるでしょうし、本職と併行してやっているからこその苦悩もありますし、こりゃどちらが苦悩かと言えばこれはもう苦悩比べなんかしても意味がなく、”ものを作るってことは要するに苦悩”であり、逃れる事が出来ない現実であり、孤独で苦悩で偏屈で卑屈な作業なのでしょう。何でこんな事やってんだろう?とたまに思います。
    根本的な問題が全く解決されていないような。
    しかし、壁に当たった時にいつも思うのは、前に当たった壁と同じ壁に当たってると一瞬感じることです。でも実は違う。同じ壁に見えても少しづつ違う壁になってるんだろうなと思えます。

    「俺の前にある荒野には何処まで行っても壁が現れるのだ」。そのようにまるで映画の主人公にでもなったように荒野の男を気取ってみれば、少し「まあ、こんなもんでもいいか」と思えて来るのです。
    だって現時点でこれ以上でも以下でもないものね。ああ苦悩。
    長くて失礼。

    1. “ものを作るってことは要するに苦悩”であり、逃れる事が出来ない現実であり、孤独で苦悩で偏屈で卑屈な作業なのでしょう。

      本当に私もそう思います…。しかも周りに才能もあってキラキラと輝いている人などを見てしまうとどうにもならんのです…。ただ歳を重ねるにつれて境地のようなもの、自分が歩いている道から見える風景というのか、そんなものを意識するようになってきてるかもしれません。考えていることと出てくるものの違いというか、出てくるものは、自分のものではなく、他人のものなのかもしれないといったような所在不明感を持ちながら途方にくれています。内的な激戦とともにお金や時間といった外的な攻撃と常に闘わなくてはならないというのは、とても疲れますよね…。でもそんな星のもとに生まれたことを誇りに思った方がよいですよね…、紙に描いた一本の線をみて、その時、他の人が見られない美しく清らかで素晴らしい風景を私たちは見ているのではないか?と思うのです…。

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