アンドレアス・グルスキー展に行ってきました。
複雑に巨大化したみえないシステムによって、集合生命体としての人類が成り立っているという視点がアタマから離れません。 例えば証券取引所の写真、コンピュータに向き合っているのは人類だがそこに隠れている世界的なシステムによって支配されているのも人類なのだといったもの。あるライブの写真にはその中心にいるアイドルの存在とそれを支えるスタッフの存在、そしてそこに集まる観客との間にも見えない快楽へのシステムがうごめいているように感じます。スニーカーがキレイに陳列されている写真にも、消費というシステムが糸をひいているように感じます。そしてそれらは、自然と乖離して、どす黒い河として流れてゆくがごとく、晶出し結晶化し静止しつつある人類をみごとに俯瞰しているのでありました。

同時にオリンピックの開催が決まったことなどもあり、未来について想像したりすると、もはや平時ではないという意識は日に日に強くなってゆく感じがいたします。ホントに甘い時代を生きてきたのだなぁという実感と、やりたいことは今のうちにやっとかないとという刹那的な生き方に動き出しているのであります。

想像できるデストピアに向かっていると感じてしまうのは、何かに支配されているのかも。と感じる日々。
でも、今日も、ゆっくり寝てしまうのだろうな…。この自家撞着…。

夜は秋らしくなってまいりました。

2 thoughts on “集合のふるまい”

  1. グルスキー展、見に行かれたんですね〜、知り合いから、ちょっと、その展覧会の情報を聞いてはいましたが、片平サンの感想を聞いて、益々気になっています。体感しないと実際には、分からなさそうですが興味深く読ませてもらいました。

    1. UESさま。すいません…。しばらくネットから遠ざかってました…。
      この展覧会は、非常に興味深かったです。その後、ボードリヤールの「芸術の陰謀」消費社会と陰謀を読みました。
      “彼らは自分たち自身が無内容であるという事実の背後に姿を隠し、芸術に関する言説を移転させるが、この種の言説は、無内容であることを価値として気前よく評価しようとやっきになっている。ある意味で、それは無であることより悪い事態である。というのも、この場合、作品には何の意味もないが、それでも、あらゆる立派な存在理由をでっちあげて、たしかに存在しているからだ。現代アートと共犯関係にあるこの狂想狂的傾向のせいで、批判的判断はもはや不可能になり、後に残るのは、無価値・無内容とのことさら親しげな示談にもとずく財産の分割だけなのだ。”
      などと雑駁な文章が続きます。
      現代アート以後の芸術のあり方…。
      グルスキーは色々な面で、現代の神話的な話題を提供していると思いました…。悩ましいですね…。

Takayuki Katahira にコメントする コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です