現代美術における現代をを定義するのは難しい。だが、簡単に云ってしまえば、過去と未来の間にあるものが現代なわけで、すなわち未来の見通しがあり、そこに向かう途中経過が現代なのであります。ですから実験的であり、「これは美らしきものか?」「われわれの存在理由はそこにあるのか?」「想像力を働かさせられるか?」「時代を切り開いているか?」などの問いかけが含まれるわけです。

作品をみたときに、どうがんばっても美らしき破片がない。自分の細胞レベルや無意識レベルで共振するものがまるでない。まったく自分の営みに関わってくるものがない。なんとなく既視感がある。このような作品はやはり現代美術などではなくただのゴミなのです。

現代美術は、富裕層の投資のためにある。ギャラリストの見解です。

そこには美術だろうがゴミだろうが関係ない、ただ美術史の中での評価が重要視されます。よって美術家は「存在理由」「認識とか無意識」「社会的な問題提起」「自然との対話」「反芸術的」など、いわゆる芸術的なコンセプトを探し求め、評論されうるネタを市場の送りこみ、一攫千金を狙うことが仕事になってしまいました。

私は、このような負の要素を背負って今日もつくり続けています。
現代や先端なんて言葉は捨て去ってしまいたいですが、そうもいかないようであります。

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