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ピンと張った一本の弦
指で弾くと上下に振れて音をだします
弱く弾けば小さな音、強く弾けば大きな音
どんな音もやがては減衰して静寂がおとずれました。

 
ある日、子供が弦を引っ張っりました
満足できずに力まかせにおもいっきり引っ張りました
パチンとはじけて、ぶらんとたれ下がった弦。
結び直す術など知らない、泣きじゃくるばかり。

 
大人だったら知っていました。ものごとには限界があることを
加減をみながら、いい音、悪い音を紡ぎ出すことを
そして、子供を許すおおらかさを。

 
現実はどうなりました?
だらんと垂れた弦に囲まれています
キラキラと輝く弦、錆び付いた弦、細い弦、太い弦、
長い弦も短い弦もみんなで垂れ下がっています。
一人もそれらを結ぼうとはしません。
風で揺れた弦どうしがカサカサと乾いた音を
ひたすらに、引っ切り無しに、出すのみです。

 
世界が陰陽でできていたころ
ピンと張った琴線は美しい音を紡いでいました
響く音が美しいと感じていました。

 
いつからか「わっせ、わっせ!」と掛け声がうるさくなりました
目の前に垂れ下がった弦をかき分けかき分け
みんなで行進。そんな日常。
「わっせ、わっせ!」明日に向かおう。
明るい方へ、明るい方へ。

26. 7月 2016 by Takayuki Katahira
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幸せ

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ぺぺは、言ったそうです。
これまでで一番幸せだなと感じたことは何でしょうか?「ずっと長い間、収監されていたから、外で雨に打たれるということができなかった。初めて釈放されて、私は、雨の中を濡れながら歩いていた。やがて、その雨のしずくが顔を伝わって口を濡らしたとき、本当に、幸せだと思ったんだ。」

 
何かとても美しい光景が広がってますよね。

 
私が、一番幸せだと感じたコトは何だったのでしょうか?想いをめぐらしてみますと感じているコトって本当に沢山あります、でもこれが一番だと言い切れる瞬間があったかといえば、ぺぺのような大きな転機は訪れていないようです。

 
最近、話をするうちに「幸せ」に話題が転がってゆきました。毎日々、好きでもない仕事に忙殺されて楽しい時間なんてほんの少し、将来に対しても希望が持てないし、まわりと比べれば劣等感に苛まれていて幸せを感じる余裕が持てないとのコト。それは、人ごとではなく、私もまったく一緒なのです。さらにコチラの思考はどんどんと停止してゆく一方、この年になっても不毛な無限ループから抜け出ることができない、ほとんど先は無い。と自虐的なことを上乗せしてしまうありさまなのです。

 
まわりを見渡せば幸せそうな人ばかり、カフェでPCを開きバリバリと働いている人たち、笑顔で楽しそうにおしゃべりをする人たち、誰かとつながってスマホをいじる人たち、大きなブランドの紙袋をぶら下げて歩く人たち、皆、満たされて幸せそうに見えます。自分も外から見ればきっと幸せなのですよキット。でしょ。「幸せは、あなたが気づかないだけ、もう幸せなのですよ。」「みんな小さな幸せで満足して生きましょうョ。」と思わず自己啓発チックなことを口にしてしまいそうにもなるのですが、ちょっと待って下さい、それで問題は解決しません。

 
そんなに不幸でもないけど、そんなに幸せでもない感じがしますよね…。きっとこれは幸せってことだよ。と自分に言い聞かせて、頭で理解してもダメなのです。幸せは感じるものだから。

 
では、幸せを感じるために何をしたらよいのでしょうか、やはり努力や戦いは必要なのではないでしょうか?ぺぺだって壮絶な戦いの中から得た幸せで多くの人を導いています。何もしないで幸せであることなどあり得ないのではないでしょうか、共感できる人々、自由に活動できる環境、そして心から生まれる笑顔、それらは幸せへと導いてくれる条件かもしれません。でも約束されたものでもありません、それらと積極的に関わってゆくことこそが必要なのです。そう思います。

 
まぁ、そんな訳で、幸せのために影でコソコソやってますよ…。邪魔されないようにネ。

06. 6月 2016 by Takayuki Katahira
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時と間と空

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時間とは時〈とき〉と間〈ま〉であります、生と死は線でつながっているものではなく、点滅するかのごとく、時と間でつながっています。精神的なカラダはそのようなものに支配されているように感じます。アタマは、過去や未来といった迷妄を破ることができませんが、心髄には今しかないです。しかし人は、それは不可能だと感じながら、空ずる間が時を生み出す瞬刻を一生懸命にとらえようとします、そんな行為が美らしき行為なのだと思います。

11. 4月 2016 by Takayuki Katahira
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乾いた雪

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朝おきて、外に散歩にゆくと地面には乾いた雪があり、北の地はよいなと想いました。
弾丸ツアーで、お酒も一滴も飲まず…。ほんと音だけに集中した2日間でした。

 
即興とは言いながら、起きていることへの意識をどこまでも広くとらえ、また、それを瞬時に表現に変換し、手が届く範囲だけではなく、様々の隙間という隙間に水道の蛇口をひねるかのごとく音を流し込み、そして満たし、浄化させ、空っぽにし、そして細胞に流し込み、また満たし、空間や肉体を変容させることができるのか、音によるインスタレーションの試みのひとつなのであります。

 
目の前で舞踏する人、横で音出す人、そしてそれを取り囲む人々、すべての人々の周辺で意識がゆれています。そして上を見上げれば天井のコンクリートのむこうには、広大な夜空が広がり、下を見れば土と大地が広がっています、それらすべてがすでに音を発しています。電気はすでに狂気を孕んでいて、いくら美らしきものがあろうとその影には狂気がのぞき、こちらをうかがっているかのようでした。

 
40分のステージでしたが、記憶は5分ぐらいしか残っていません、残りはどこかの意識とつながっていたのかもしれませんし、無になっていたのかもしれません。すばらしき瞬間の連続でした。

 
イベントを企画し関わってくれた方々、そして、ご来場された方々に心より感謝申し上げます。贈り物をたくさん頂きました。

 
アリガト。

13. 2月 2016 by Takayuki Katahira
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NEXT ERA NORTH at PRECIOUS HALL

nextera

http://conte-sapporo.com/nexteranorth/

 
〈心の瞬間的な状態〉意識を記述しようとすると、何か奇妙なことがある。それは、意識という言葉で何を意味しようと、意識ということが明確になるとは思えない、ということである。意識は、混乱しているとか、何がなんだかわからないといった感情ではない。そうではなくて、何が起こっているかはわかっているのにそれを正確に記述できない、と感じるのである。きわめて近くにあるように思えながら、いつだって手が届かないようなもので、これ以上のものがいったいありうるだろうか。
マーヴィンミンスキー「心の社会」—–

 
今回のこのイベント参加を決めた理由は、このイベントへの意識を明確に感じることができたからなのだと思います。たぶん、主催者は、プレシャスという場を変容させようとしています。私たちは知らず識らずのうちに様々なモノゴトを常識という枠にはめ込んで生きています。自分たちの遊び場でさえ常識の範疇で満足しています。そこからはみ出せばもっともっと楽しみがあるのにそのことに気がついてはいません。おそらく、主催者たちは言葉を求めています、それは、常識を破って行動することでしか出てこない言葉です。それを武器にして次に進もうとしています。そんな機会に声をかけてもらっている訳ですから気合いが入らないはずがありません。

 
今回の私の出番は、田仲 ハル (舞踏) × SYV BRUZEAU (舞踏) 《France》 × SHOHEI TAKATA(電子音)×私(電子音)との4人でのステージです。まったくの即興でもよいのでしょうが舞踏家たちは、ある意識のもとに踊るようです。音のほうは任せるよと言ってもらっていますが、何かを聴き、音を出すということは、まったく瞬間的なことでありまして、何も決めない方が純粋ではあるのですが、今回は、ある程度の意識の統一みたいなものが前提にあったほうが巧く作用するのではと思い、即興譜をもとに音を出すことにしました。しかし、カラダも音も瞬間的に煌めき、そして消えてゆくわけでして4人から何が生まれ何が消えてゆくのか、そこで目撃した人々に何が残るのか、今からとても楽しみにしています。

 
是非!お見逃しなく。再会と出会いを楽しみにしております。

06. 2月 2016 by Takayuki Katahira
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bariumu

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白いうんこ。化学のかおり、すごい違和感。時限爆弾が炸裂。非現実な今日の現実。ムクムクと過去をひきずり。停止命令。漏れる漏れる言葉。あふれる言葉などもうどこにもない。しずくのように垂れる。白い液状のエロス。きく。たそがれ臣下のウジ虫どもが。よりそう。それがしんかか。よく磨かれた大根。培養ドロも白か。それもしんかか。停止線をいちミリでたら。集中砲火。だってそれっていけないことだろ。きみがみんなできめたおきてを破ったのだからね。白いかみにかかれていただろ。ぼくらのしんかのためだって。未来を怪我すことはゆるされないんだよ。すべての火器がきみをはねるのさ。あはは。その時、白いうんこもはねるだろ。あはは。

 
本日、バリウムをいただきましたとさ。

28. 1月 2016 by Takayuki Katahira
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負け

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昨年もいろいろありました。きっと今年もいろいろあるでしょう!

 
これができなければ“負け”なのだ!自分たちの存在意義が認められず、やりたいことも出来なくなり、生きている意味など無くなってしまいます…。だから皆で戦いましょう!!!

 
何度も繰り返されるスローガンであります。でも、いままでこの手の話のあと、皆でがんばり、そして、目標を達成した暁の勝利宣言などをきいたためしがありません。ただ自分が勝ち組(いやな言葉です…)にいたいだけ…。

 
ダラダラと戦いが続くだけです…。

 
ここ数年、問題や課題と勝負し、相手を叩きのめして勝利を手にするなんてことにまったく思考が向いていません。逆に、まだ、みんなは戦っているのだなぁなどとのんびりかまえているわけであります。他人からみれば戦意喪失した燃え尽き症候群のオッサンに見えていることでしょう…。

 
そして確認のために、周りの人達にも「戦っているのか?」問うてみると「すんごく戦ってますよ!」という返事が多くて驚かされました。「なにと戦っているの?」と返すと「自分と…」という人が多いようです。

 
人は自分に無いものを知っているが故に戦っているのではないかと思います。
「美らしきこと」を探すことも感じることのできない美意識に一歩近づくための戦いであるのかもしれないわけです。自身はそんなに戦っているという意識は無いのですが…

 
自分の中では、“戦い”よりも“対話”というものに心が支配されています、モノやコトやヒトといかに対話できるのか?とても難しい。戦うこと以上に難しい。命がけであります。でも意識をそれに向かわせることで戦うこと以上の成果を少しばかり手に入れられてきているような気がしてきています。昨年も沢山の贈り物をいただきました、ここに詳細は書きませんが、本当にありがとうございます。感謝しています。対話とは、コミュニケーションの手段ではなく、自分が動いてゆくこと、実行してゆくことの意味合いを噛みしめつつ今年も自分の活動に反映させていきたいと思います。

 
固着しながら流動し、痼りをのこしてゆくような…

 
そんなことを考えながら年を越しました。
今年もそんな感じでおつきあいのほどよろしくお願いいたいます。

05. 1月 2016 by Takayuki Katahira
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共振

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私はすごい勢いで感じています、五感を通して入ってくるものと元々オノレの中に埋もれている細胞的感情が共振し心にうつしだされるものは、色やカタチも音程も手触りもニオイも味も全てがあいまいで、言語化したり視覚化できるものは、ほんの一部分にすぎず人に伝えられるものは更に眇眇たるものなのであります。

 
人は、見えないものを一生懸命に見ようとします。それは何故か?好奇心という言葉で片付けてしまうのは単純すぎます。眇眇たる痕跡ともいえる創造物が語りかける美味をしってしまった罪深い猿が身につけた習性なのではないでしょうか。

 
ここ数年、音と向き合っています。「私の悩みは、聴衆は音楽を求め、演奏家は音を求めるということだ。」ちょっと前に少しおかしなギタリストがマイクを手につぶやいていました。それを見ていた私は、この人、神様だなと思いました。

 
時代はどんどん、人々の多くを聴衆や鑑賞者から創造者へと作り替えていっています。音楽は音へ、絵画は色やカタチへ、どんどんとその姿を変えてきています。心にうつしだされるものは、抽象化された形而上のものであることに変遷してゆくことは人類の進化であるのだと現代美術や現代音楽などを肯定できるわけであります。

 
入ってくるものと内面との共振はいかにおこるのか、舞踏などをみるときに感じるのですが、肉体は常に動きつづけ、心臓が止まることなどないのに、一瞬のカラダの煌めきで宇宙の全てが感じられるような瞬間があります。共振を哲学的に説明するまで至らないのですが、「細胞的感情の共振とは一瞬の出来事なのかもしれないなぁ。」と考えるわけであります。

 
そんなわけで宣伝ですが、11月14日の土曜日、おそらく19時半ぐらいから、阿佐ヶ谷のYellow Visionというところで音のパフォーマンスします。
「一瞬の共振」をつくれるかどうか?まぁがんばってみます。是非!

31. 10月 2015 by Takayuki Katahira
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新しい価値

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政治家が過去のブログを消したようです。これからの仕事は過去を否定したモノゴトを実行するぞということでしょう…。
おそらく、これからそれを読まれては困る…。つまり考えが変わったということなのでしょう…。まぁ、今となっては期待することもなく、どうでもよいと感じてしまいます。自分も過去のブログは結構消しています。誤解を招きそうな発言や間違っていたという発言は、人には見せたくありません。ただ、消している理由はそれだけではなく、薄々皆様、気がついていると思いますが、もはや言論の自由が犯され初めているということもあるのです。それゆえに、他人が何を考えているのか解りづらく、自分が当たり前と考えていることは、実は、とても浅はかで深く考えてみれば、正しいのか?間違っているのか?まったく判断できない。ということが多々あるのです。

 
人々が望んでいるモノゴトは「新しい価値を提案せよ!」お題目はそれなのです。過去や古い考えに縛られず、新しい思想にのっとた新たなる価値が人々を引きつけるのです。

 
最近、本屋さんによったとき、奥の方に、渋い本を集めたコーナーができてました。現代美術に関わる「偶然と必然」とか、その他にも哲学書や詩集なども、個人的に魅力的な書籍が並べられていて、お!なかなかやるなー。と感心して物色してたのですが、その中でも「活動的生」という本に目がとまりました、かつて「人間の条件」というタイトルで出版されていたものの最新訳がそのようなタイトルになったようです。数十分じっくり立ち読みしたのですが、アホな脳みそでもなんかスラスラ頭に入ってきて、たまには哲学書もいいなぁなどと、お値段をみてみると…んー高い。丁寧に書棚に戻したのでありました。

 
数日後また同じ本屋さんに寄りました、「活動的生」は、まだ3冊残っていて数日前から売れた気配も無く同じ場所にたたずんでいました、また、手にとって、このあいだとは違うページを読み出しました。フムフム確かに確かに、人間とはそんなものかもね…。でもねー。高いのですよ。また丁寧に書棚に戻したのでありました。

 
いまさら、人間がどうしたこうしたを考えてみたところで自分の何が変わるのでしょうか?もうそのような時代ではないのかもなぁー。自分も表現者のハシクレとして何を伝えるべきなのだろう?シュールな世界では許されないのでしょうか?新たな価値観を模索するのか?本質的なものを掘り下げるべきなのか?

 
ここまで書いてきてやはり本を買うべきだなと思えるようになってきました。新しい価値観によって壊されてきたモノゴトを新たな価値観で埋め合わせるような無限ループに時間をさくより、サルからヒトに進化した人間の本質を常に考え続けることを忘れてはいけないなぁ…などと思うわけです、新しいも古いも関係ない。現代美術家として、人間の本質を探り、その“探り”の中から見える風景を同時代に表現すること。この視点は、結構重要なことなのです。美術が担う役割のひとつなのであります。

 
こんど本屋さんによったら、本は買ってしまおう。馬鹿はバカなりに学ばなくていけない。たぶんこの出会いは偶然と必然なのです。

13. 10月 2015 by Takayuki Katahira
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理論物理学と音

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「超ひも理論」という理論物理学の言葉をきいたことがありますでしょうか?物質の最小単位は「点」ではなく「ひも」であるというものです。まったく理解しえない世界観ですが、この宇宙は11次元という空間で弦が振動し音を発しているということのようなのです…。難しいことは物理学者にまかせて、素人のわたしは、つまりは「世界は音でできているのだ。」と美味しいところをつまみ食いしたくなるわけなのであります。

 
現代美術は物理や科学などの分野からも影響をうけて表現されてきました、わたしが大好きなダリも物理学に傾倒した作品を残しており、美術とは異質なものと考えがちな量子物理学から触発され、意識を拡張してきたわけなのです。まぁそのような影響もあり、わたしもミクロやマクロ的な話は大好物なのでありまして、粒子や波動など、宇宙やそこに在るワタシは究極的には点とその動きでできたモノなのだ、ワタシに潜む美らしき心や意識の流れもついにはそこに行き着くのである。などとノタマイ制作を続けてきたフシがあるのであります。

 
「ナーダブラフマー」すべての音を消し去れその時なにがきこえるか?

 
超ひも理論的な解釈であれば、音を消し去ることなど出来ないことになります、無限宇宙であればどこまでも音は鳴りつづけており、「ワタシがココに在る=音」なのであります。果たして向こう側にいってしまえば音の呪縛から解き放たれることなどあるのでしょうか?

 
ここ最近ずーと、ノイズにハマっています。我ながら病的だなぁと思うのですが、「ブーン」とか「ジー」とかいう音をランダムに空間に配置してきいていると、なぜだか心が休まるのです…。

 
ヤバいです…。

30. 9月 2015 by Takayuki Katahira
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本音と建前

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昭和の頃には、「部長はこう言ってるけど、本音はこうなんだヨ。」ということをよく聞かされました。いわゆる日本人論的なものはあるのですが、「今はこういう状況で建前を言うしかないのだけど、本音では将来はこうしてゆきたいのだ。」という場面が多くありました。

 
最近、人と話をしていると、それ本音で言ってる?それって建前?ということが分かりづらいことが多くなりました。“絶対、それって建前でしょ!”ということを繰り返し、この人は本気でその建前を信じて邁進しているのかぁ…なんかヤバイなぁ…ということが多くなりました。

 
日本人的に本音と建前を使い分けるということは、面倒だし誤解を招くことも多いですからストレートに本音だけの方が良いに決まっているのですが、その本音がズレてしまっていると思われたら人間関係はそれでおしまいです。建前がズレている場合はきっと本音ではこう思っているハズだからとりあえず言わせておけばよいか…ということもあったような気がします。

 
かくいう私はどうなのか?と言えば、結構な建前派なのであります。このブログで書き綴ることも割と建前なのであります。ヘタクソな文章ですがそれなりにカッコつけて理想論を語るというのは建前でしかありません…。あの馬鹿のことを糾弾したり、恥ずかしい妄想を拡散したり、エロエロパワーを見せつけたり、たぶんこれが本音なんだよなということは照れくさくてワザワザがんばって書く気がしないのです。

 
では本音をどこで言っているかといえば、それはふとした“ひと言”にあるのです。いっしょに食事をしたときに「実はね…」というひと言や、怒って無意識に文句を言って言っているひと言にそれは隠れているのです。先輩が本音で何を想っているのか?それが知りたいが故、飲み会にもよく行ったし。乱暴な言葉に救われたりもしました。

 
いまでは、本音はどこまでも本音ですし、建前はどこまでも建前ですし、本音が実は建前だったり、建前が実は本音だったりして、もうなんだか分かりません…。原因は様々でしょうが、なんとも生きづらいように感じます。

 
さて今日のブログは本音でしょうか?建前でしょうか?

22. 8月 2015 by Takayuki Katahira
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解体装置としての美術

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「私たちはどこへ行くのか。そして自分は何をするのか?」
日々考えを巡らせています。

 
現代は一瞬完成したのかもしれません。しかし今日も漠然と不安と恐怖に追い立てられるように生活しているのは何故でしょうか?イデオロギー。最近思うことは、どうやら人よりも悩みが多いのかもなぁ…ということです。

 
現代美術は同時代性ということを常に前提にしています、ですから私は、さして必要も無い情報も未来への兆しとして敏感に反応してしまうのは、現代美術症候群と呼んでもいいのでしょう。一般生活を維持するための労働の場でその病が出てしまうと「宇宙語を喋っていて何が言いたいのかサッパリだよねー。」と陰口を叩かれてしまうわけです。ですから、そのような方向に話が展開しないように気をつけることと、情報にはなるべく近づかないような生活を心がけ、感覚的に美らしき気配を日々感じられるように努力しているのですが、都市生活者として致し方ない部分もあるわけなので、電車に乗ればスマホでみなさんがどことつながっているのか?覗き見してしまいますし…。自宅にはもうテレビはないのですが、ふとテレビがある場所にいけば普段見ていない分、食い入るように見てしまいますし…。パソコンを開けば隠蔽さているニュースがないかをチェックしてしまいますし…。本屋にいけばついつい長時間立ち読みしてしまいますし…。ついついいろいろ観察してしまうわけです。

 
そんな中途半端に断片化した情報が意識下に再構築され続けていると考えると、おそらく表現においてもそういったなものになるだろうし、コミュニケーションにおいてもグダグダになってしまうのは仕方の無いことと諦めているわけで「私はどこにも行かない。ただ、意識の解体装置としての美術を模索するのだ。」と呟いてみるのでした。美らしきことは野蛮な行為でもあるのです。

19. 6月 2015 by Takayuki Katahira
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